2010年7月18日(No.31)伊根

2010年07月20日 04:58

先週中盤まで続いた局地的豪雨を最後に梅雨が明けました。快晴の中、8時に高槻を出発。舟屋で有名な丹後半島の伊根を目指します。やはり高速道路無料化と3連休中なので何度か渋滞に出会い、予定より1時間遅れで道の駅伊根の舟屋に到着。

往路 高槻-亀岡(京都縦貫自動車道)丹波-和知(京都宮津自動車道)宮津-伊根
復路 伊根-宮津(京都宮津自動車道)和知-日吉ダム-亀岡-高槻

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伊根は古くからの漁村ですが、この舟屋は実は昭和初期になってはじめて建てられたものであり、もともとの船着場に建物をたてて住宅に兼用・転用したものです。海側に舟屋が並び、車がやっと1台通れる狭い道が続き、この道を挟んで家々が軒を接して立ち並び、その裏はすぐに山に面しています。もともとは山側の住居だけだったものが他に空間がなくて海側に張り出していったと言われています。

伊根で注目すべきは「住民たちが平等にそれぞれの船着場を持ち同様に家を建設し合理性を追求した」ことからリズムと調和のとれた景観となったことです。
ある米国人の教授は「私は何年も、海と上手に付き合う建築法を探し続けてきました。しかし、どの国を訪れても理想の建物はなく、あきらめかけていた時に舟屋を見つけました」と伊根との出逢いを語り「舟屋は山と海とのつながりを大切にした世界に例のない風景」と絶賛しています。


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伊根から3Kmほど北側の海岸沿い、伊根温泉への途中にとても小さいのですが新井崎神社(にいいざきじんじゃ)があります。ここの案内板には次のように記されています。
浦島伝説・徐福伝説 伊根の舟屋をめぐるみち --- 新井崎神社

今から約2200年前(弥生時代の初期)、中国の秦の始皇帝の命を受け、方士徐福が綿密な計画のもとに数年の歳月を費やし、不老不死の仙薬を求めて童男童女3000人、五穀の種子、百工(技術者)を従え東海に船出した。

新大明碑記によると、徐福がこの地を易巫によって予知し、漂着した場所は新井崎のハコ石であると伝わっている。新井崎には、古くから徐福信仰があり、地区住民は徐福を新井崎神社の神様として信仰をあつめている。

この地の徐福の記憶は具体的です。ハコ石に到着した徐福はこのまま帰国するとただでは済まないと言い、この邑に住んでやがて尊敬をあつめて邑長となったそうです。徐福は豊穣、海難、ハシカの神様として祀られています。徐福本人ではないにしても船団の一員がここにも漂着したのではないでしょうか。

徐福伝承は和歌山県新宮市阿須賀(熊野)、山梨県富士吉田市、丹後半島伊根町新井崎、鹿児島県串木町冠岳、宮崎県延岡町徐福岩、佐賀県金立山など九州から太平洋側、日本海側、遠く東北地方まで伝えられています。

3000人を超す移民団が自然の助けを借りて日本の各地に散っていき、やがて数万年続いた縄文時代の日本に突如、弥生時代が出現する。稲作と養蚕技術、鉄器及び青銅器の使用は瞬く間に九州から東北まで伝播し急激な社会変革がおこったことは徐福伝説と無関係ではないと多くの学者は見ています。

丹後半島の海岸沿いにいくつか露天風呂を備えた休憩スポットがあります。ここでゆっくり海を眺めていると沖を快走する除福の移民船団、百済から敦賀を目指す渡来人の交易船団、時代は下って北海道へ向かう北前船の船団、が見えるような気さえします。


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